木下まち育て塾

木下河岸物語(工事中)

 
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第一章 木下河岸の成り立ち

印西市の北部を流れる利根川は、江戸時代に人口が増え続けた江戸。
の町に様々な物資を運ぶ重要な水路として、長い開拓の歴史を
経て今日に至っています。木下はその時代に人と物が行きかう
河岸場の町として江戸でも知る人が多い賑わいのある所でした。
利根川が今日のように関東平野の北部の山々から流れを集め、
銚子の河口から太平洋に至る姿になるまで、家康の関東入国
以前の工事を含めると約60年の年月をかける大工事によるもの
であったと言われています。
「利根川東遷」の大工事は、今日の首都圏の繁栄を支えたと
言っても過言ではない、後世に残る大事業でした。

第二章 木下河岸の隆盛期

  利根川東遷が完成すると、江戸から東国に向かう街道の脇往還
として木下が舟運の結節点としての役割が高まり始めました。
特に新利根川の廃止以降木下の前の利根川の流れは広く水量も
多くなり船着き場として徐々に旅人や荷物の行き来が盛んに
なってきました。 木下が河岸として認められたのは、元禄2年(1689)から始まった
江戸幕府による「河岸吟味」によるものと言われ、鮮魚輸送や
御用米の運送がより盛んになってきました。江戸から行徳までは
舟で、行徳から木下までは人馬で木下から再び舟で利根川を下る
ルートが確立して行きました。

第三章 木下・大森・六軒の町の歩み

現在の吉岡まちかど博物館の道を挟んで斜め向かいにある
「銚子屋旅館」の裏玄関は「利根水郷ライン」に面しており、
そこには昭和31年頃に埋め立てられた利根川と手賀沼を繋ぐ
内川が流れていました。
その水路は現在の中央公民館の辺りで、六軒川と弁天川に繋がり
この二つの内堀に挟まれた大森・六軒の町の水運を担う水路として
その姿を残しています。

第四章 木下の繁栄と蒸気船

江戸時代から河岸問屋を営んできた吉岡家は、通称「問屋」と
呼ばれており木下茶船運航で遠く江戸にまで木下の名を
広めていました。
明治に入ると蒸気船が河川交通に登場し、吉岡家もまた明治12年に
「銚港丸」を建造、木下銚子間や霞ヶ浦を含めた下利根川流域の
河岸を巡る川蒸気船のネットワークを築きました。
銚港丸は全盛期には5隻建造され、他に木下から生まれた利根丸や
信義丸とともに川蒸気船の隆盛の中心的役割を担いました。

第五章 木下河岸関連資料

参考資料:
印西市歴史読本(印西市教育委員会刊)
  川の上の近代(川蒸気合同展実行委員会刊)
   利根川と木下河岸(山本忠良著)
印西地方史よもやま話(五十嵐行男著)

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